火幡神社は、奈良県北葛城郡王寺町に鎮座する由緒ある神社です。『延喜式』神名帳に記載された式内社(名神大社)にあたり、明治期には旧社格・村社に列せられました。王寺町の山上地区を中心に、小黒や送迎(ひるめ)の一部の氏神として、地域の人々の信仰を集め続けています。
境内は明神山の参道に近く、同じく古社である白山姫神社と氏子域を分け合う位置にあり、山麓信仰と深く結びついた神社として知られています。
火幡神社の名にある「火幡(ほはた)」とは、優れた織物や機織りを意味する言葉で、「秀幡」「秀機」とも表記されます。このことから、古代において養蚕や機織を担っていた人々が、自らの生業の守護神として火幡神を祀ったことが、創建の起源であると考えられています。
『新抄格勅符抄』によれば、大同元年(806年)に火幡神へ伊予国十戸の神封が与えられたと記されており、平安時代初期にはすでに国家的に認知された神社であったことがわかります。
延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、火幡神社は名神大社に列し、月次祭・新嘗祭における奉幣を受ける神社として記録されています。これは、朝廷から特に重視された神社であったことを示しています。
当初の祭神については、「火之戸幡姫命」「火之戸幡姫」などとする説があり、創建時は火幡神を一座として祀っていたと推測されています。
火幡神社には、戦国時代の動乱と関わる伝承も残されています。天正5年(1577年)、松永久秀とともに織田信長に反旗を翻した畠山義宣らが片岡城に籠城し、明智光秀や筒井順慶らによって討たれました。その際、城内に葬られた義宣の霊を弔うために三松八幡社が創建され、これが後に火幡神社となったという説が、「泰国文書」に記されています。
江戸時代には「八幡宮」と称され、地域の鎮守社として親しまれてきました。
境内に残る最も古い石灯籠は、拝殿石段下の西側にあり、元禄9年(1696年)に畠田村の人々によって奉納されたものです。地域の人々の篤い信仰が、今も形として残されています。
現在の拝殿は昭和46年(1971年)に再建されたものですが、それ以前の拝殿は、明神山山頂にあった送迎太神宮の拝殿を移築したものと伝えられています。また、鳥居前に立つ一対の石灯籠は、天保2年(1831年)に大坂の人々が送迎太神宮に奉納したもので、同神宮の撤去後に火幡神社へ移されたと考えられています。
現在、火幡神社では次の五柱の神々が祀られています。
天児屋根命、息長帯比売命(神功皇后)、誉田別命、玉依姫命、天照皇大神
これらの神々は、国家安泰、家内安全、子孫繁栄、産業振興など、幅広いご利益をもたらすとされています。
貞観元年(859年)には、火幡神が従五位上に叙せられたことが『日本三代実録』に記されており、朝廷から高い評価を受けていたことがうかがえます。
火幡神社の境内には、絵馬殿が設けられています。二上山・葛城山麓一帯では、子どもが生まれると秋祭りの際にその子の絵馬を奉納する風習があり、絵馬殿には数多くの絵馬が今も大切に掲げられています。
また、現在では三年に一度、白山姫神社の秋祭りに合わせて、山上・小黒・送迎の各集落から太鼓台が出され、火幡神社をはじめ地域内を練り歩きます。祭りの日には、古くから受け継がれてきた地域の結束と信仰の力を感じることができます。
火幡神社へは、JR西日本 和歌山線 畠田駅から徒歩約10分と、比較的訪れやすい場所にあります。静かな住宅地の中にあり、落ち着いた雰囲気の中で参拝することができます。
火幡神社は、古代の機織や養蚕信仰に始まり、戦国の動乱、そして現代の地域信仰へと、その姿を変えながらも人々の暮らしを見守り続けてきました。境内に立てば、長い歴史の積み重ねと、地域に根ざした温かな信仰を感じ取ることができるでしょう。
王寺町を訪れた際には、ぜひ火幡神社に足を運び、静かな社叢の中でその歴史と文化に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。