歴史
### 創建と大仏造立
東大寺の歴史は8世紀前半にさかのぼります。創建当初、若草山麓に金鐘寺という寺院がありました。この金鐘寺が東大寺の起源とされています。天平5年(733年)に創建された金鐘寺は、その後天平14年(742年)に金光明寺と改称されました。
東大寺の名が登場するのは、天平19年(747年)からです。同年、聖武天皇が大仏造立の詔を発しました。当時、天皇は紫香楽宮におり、大仏造立もここで始まりました。天平17年(745年)には都が平城京に戻り、大仏造立も現在の東大寺の地で行われることになりました。
### 大仏造立の背景
大仏造立は大規模な工事であり、多くの民衆の協力が必要でした。行基を大僧正として迎え、大仏の鋳造は天平19年(747年)に始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼会が行われました。その後、大仏殿の建設が始まり、天平宝字2年(758年)に完成しました。
### 奈良時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が一直線に並び、その周囲には僧房や食堂、七重塔などが配置されていました。伽藍が完成するまでには約40年かかりました。当時、東大寺は「六宗兼学の寺」として、複数の宗派が共存していました。
### 平安時代の変遷
平安時代に入ると、東大寺は桓武天皇の南都仏教抑圧策により一時的に圧迫を受けましたが、空海が別当となり真言宗や天台宗も学ぶ「八宗兼学の寺」となりました。また、天災や火災で度々被害を受けましたが、皇族や貴族の寄進により復興が進みました。
### 中世以降の復興
1180年、平重衡による南都焼討で東大寺は壊滅的な打撃を受けました。その後、後白河法皇の命により重源が大仏や諸堂の再興に当たり、1195年には再建大仏殿が完成しました。しかし、戦国時代には再び兵火により多くの堂塔が焼失しました。
### 江戸時代の再建
江戸時代に入ると、公慶による大仏の修理と大仏殿の復興が行われ、1709年に完成しました。現存する大仏殿は高さと奥行きは天平時代とほぼ同じですが、間口は縮小されています。再建にあたっては方広寺大仏殿の意匠が参考にされたと考えられています。
### 方広寺との関係
江戸時代中期、東大寺と京都の方広寺には大仏・大仏殿がありましたが、1798年に方広寺大仏は落雷で焼失しました。その後、東大寺は神仏分離により手向山八幡宮が独立し、現在に至ります。
大仏(盧舎那仏像)
## 国宝とその意義
大仏は国宝であり、正式名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」です。その像高は14.7メートルに達します。盧舎那仏は『華厳経』に登場する仏で、蓮華蔵世界の中心に位置し、大宇宙の象徴とされています。
## 木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
大仏の左右には、木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像が脇侍として安置されています。これらの像は大仏(銅造)とは異なり、京都と大坂の仏師によって江戸時代に製作され、その技術と芸術性で知られています。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろに完成し、虚空蔵菩薩像は宝暦2年(1752年)に完成しました。
## 金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿の正面に立つ金銅八角燈籠も国宝です。高さ464センチメートルで、奈良時代に創建されたものですが、たびたび修理されています。燈籠の火袋には八角形の形状で、四面には獅子や音声菩薩が浮彫で表現されています。竿の部分には経典の一部が刻まれており、歴史と宗教的意義を伝えています。
南大門
南大門は国宝であり、平安時代の応和2年(962年)に台風で倒壊し、その後鎌倉時代の正治元年(1199年)に再建されました。この門は、東大寺の中興の祖である重源が宋から伝えた建築様式を採用したことで知られています。その特徴は、柱を貫通する水平材「貫」を多用し、天井を張らずに構造材を露出させるなど、堅固な構造と装飾の融合です。金剛力士像と石造獅子像(重要文化財)南大門内には金剛力士像と石造獅子像が安置されています。金剛力士像は高さ8.4メートルの木造で、建仁3年(1203年)に短期間で造られました。左右逆の配置で、吽形(口を閉じた像)が右に、阿形(口を開いた像)が左に置かれています。石造獅子像は南大門北面の東西の間に位置し、宋人の字六郎によって建久7年(1196年)に製作されました。元々は大仏殿中門に置かれていましたが、室町時代に南大門に移されました。彩色が施されていた痕跡がわずかに残り、台座には重源ゆかりの文様が見られます。
二月堂
二月堂は、旧暦の2月に行われる修二会(お水取り)に由来する名前で知られています。建物自体は治承4年(1181年)と永禄10年(1567年)の2度の大火を免れましたが、寛文7年(1667年)にお水取りの最中に失火で焼失し、その後2年をかけて再建されました。本尊は「大観音」と呼ばれる二体の十一面観音像で、どちらも絶対秘仏とされています。二月堂自体は2005年に国宝に指定されました。建物の西側は急斜面に立ち、懸崖造りの構造となっています。周囲には遠敷神社と飯道神社、そして崖下には参籠所や仏餉屋、興成社があります。また、修二会で使用される若狭井のための閼伽井屋も重要文化財として残っています。
三月堂(法華堂)
法華堂は、東大寺境内の東側、若草山の麓に位置しています。この建物は、奈良時代の貴重な建築物の一つであり、天平仏の宝庫として知られています。もともとは羂索堂と呼ばれ、東大寺の前身である金鐘寺の堂として建てられました。建築の主な部分には正堂と礼堂があり、それぞれ奈良時代の建築の一部と後に付加された鎌倉時代のものが含まれます。法華堂には乾漆像や塑造像など多くの仏像が安置されています。その中でも特筆すべきは奈良時代の乾漆不空羂索観音立像と塑造執金剛神立像です。不空羂索観音像は高さ3.62メートルで、三眼八臂の特徴を持つ観音像として知られています。また、執金剛神像は秘仏とされ、仁王像を1体で表現したものです。
伽藍
東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接しています。中門と大仏殿南大門をくぐり参道を進むと、正面には中門(南中門)があり、その先に大仏殿(正式には「金堂」)があります。大仏殿の前には東大寺創建時に建てられた八角灯籠があります。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に続いています。元々は北側にも回廊があり、その中央には「北中門」がありましたが、現在は南側にしか残っていません。本坊とその周辺南大門から中門に向かう参道の東側には東大寺の本坊があり、西側には東大寺福祉療育病院などがあります。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、さらにその東方の山麓には「上院(じょういん)」と呼ばれる地区があります。ここには開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)があり、その南には別法人の鎮守の手向山八幡宮があります。指図堂と正倉院大仏殿の西方には指図堂、勧進所、戒壇院などがあり、北方には正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫があります。正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理しています。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門があります。その他の堂塔かつては大仏殿の北に講堂と僧坊がありました。これらの東には食堂があり、僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられた「三面僧坊」と呼ばれました。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(両方とも七重塔)がありましたが、現在は遺構のみが残っています。