率川神社は、奈良県奈良市本子守町に位置する由緒ある神社で、古くから「子守明神」としても親しまれています。大神神社の境外摂社であり、正式には「率川坐大神御子神社(いさがわにますおおみわのみこのかみのやしろ)」と称します。その名は『延喜式神名帳』にも記載されており、「率川坐大神神御子神社 三座」として式内小社に列せられています。
率川神社の創建は、推古天皇元年(593年)と伝えられています。大三輪君白堤が勅命により、神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)をお祀りしたことが始まりとされています。これにより、奈良市内で最も古い神社の一つとされています。
その後、元正天皇の命により、本殿中央に御子神(五十鈴姫命)を、右に父神である狭井大神(さいのおおかみ)、左に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)を祀る現在の三座の形が整いました。
仁寿2年(852年)には、文徳天皇より従五位下の神階を授けられ、神封として6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられました。しかし、治承4年(1180年)には平重衡による南都焼討により社殿が焼失してしまいます。
その後、建久元年(1190年)に興福寺の支援により社殿が再建され、以後は興福寺の管理下となりました。中世以降は春日若宮神官によって管理されるようになり、「春日三枝神社(かすがさえぐさじんじゃ)」とも称されました。江戸時代には春日大社の大宮外院11社の一つとされ、明治10年(1877年)には内務省達により正式に大神神社の摂社とされました。
本殿には、御子神である五十鈴姫命が中央に鎮座され、父母神がその両脇に寄り添うように祀られていることから、古来より「子守明神」と称され、特に安産や育児の神として厚い信仰を集めています。神社の南側を流れる川は「率川(いさがわ)」といい、この信仰に因んで「子守川」とも呼ばれています。
社殿は一間社春日造の三棟が並立し、障屏によって繋がれています。それぞれの正面には七段の木製階段が設けられ、登高欄には擬宝珠が取り付けられています。屋根は桧皮葺で、千木と勝男木が飾られており、江戸時代初期の建築様式と考えられています。
毎年6月17日に行われる例祭で、通称「ゆり祭り」として知られています。古くから三輪山に咲く笹ゆりを「さいぐさ」と呼び、この花を神前に供えることから「三枝祭(さえぐささい)」と呼ばれるようになりました。
この祭りは鎮花祭(ちんかさい)に由来し、疫病除けの願いが込められています。祭典の後には、祭神である五十鈴姫命の古事にならい、ゆりを手にした七乙女が町中を練り歩く華やかな行列が催されます。『神祇令』にも記されているほどの古い祭りです。
率川神社の境内に鎮座する末社のひとつである率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)は、宝亀2年(771年)に大納言是公により創建されたと伝えられています。『延喜式神名帳』にも「率川阿波神社」と記された式内小社で、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。通称、恵比須神として親しまれています。
この神社は度重なる戦乱により一時廃絶状態となりましたが、明治時代に再興され、1920年に現在の率川神社境内に遷座されました。その後、1959年の境内整備により、住吉社・春日社とともに現在の位置に移されています。現在も「享保3年(1803年)阿波社」と刻まれた石灯籠が残されており、旧地の記憶を今に伝えています。
著名な作家・三島由紀夫は、小説『奔馬』の中で、登場人物の本多を通じて「これほど美しい神事は見たことがなかった」と三枝祭について語っており、その美しさと荘厳さが文学作品でも称賛されています。