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興福寺

(こうふくじ)

興福寺は、奈良県奈良市登大路町に位置する、法相宗の大本山として知られる歴史ある寺院です。山号は持たず、本尊は中金堂に安置されている釈迦如来です。南都七大寺の一つに数えられ、古代から中世にかけては極めて大きな影響力を持っていました。創建以来、藤原氏と深いつながりを持つ氏寺でもあり、藤原鎌足とその子・藤原不比等によって支えられました。

また、興福寺は「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産にも登録されています。多くの貴重な文化財や信仰の場が集まっており、日本仏教史の中でも特に重要な存在です。

札所と観音信仰の場としての役割

興福寺の境内には、複数の札所や信仰の対象となる堂宇があります。たとえば、南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所として広く巡礼者に親しまれています。

また、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所であり、さらに境内の一言観音堂南都七観音巡拝所の一つに数えられます。

興福寺の歴史

創建と名称の変遷

興福寺の起源は、藤原鎌足の妻・鏡王女が鎌足の病気平癒を願い、大化元年(645年)頃に釈迦三尊像を造立したことに始まります。天智天皇8年(669年)、その像を本尊として、山背国山階(現在の京都市山科区)に「山階寺(やましなでら)」として創建されました。

その後、鎌足の死後の壬申の乱(672年)の年に寺は藤原京へ移転し、「厩坂寺(うまやさかでら)」と呼ばれるようになります。さらに、和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い、藤原不比等の手により現在地に移され、「興福寺」と改称されました。

伽藍の整備と国家の関与

和銅7年(714年)には中金堂(当時は金堂)の供養が行われ、建築は本格化します。その後も天皇や藤原氏の寄進により次々と伽藍が整えられ、北円堂・東金堂・西金堂・五重塔などが建立されました。

特に奈良時代中期には、藤原不比等の妻や子息らによってさまざまな堂宇や仏像が建立・安置されるなど、国家による造営が進みました。これらの事実は、当時としては珍しい私寺への国家の介入を物語っています。

代表的な堂宇と仏像

これらの仏像は現在も重要文化財や国宝として大切に保管されています。また、唐より帰国した高僧・玄昉が法相宗の興隆に貢献したことも記録されています。

伽藍の拡張と東院の整備

西院の整備が進むと、次に興福寺の本坊東側にあたる場所に東院の建設が始まります。ここでは、藤原仲麻呂やその一族によって複数の堂宇が建立され、伽藍はさらに拡大しました。講堂・僧房・施薬院なども設けられ、奈良時代後期までにほぼ現在の形が整ったとされています。

平安時代と南円堂の建立

平安時代初期の弘仁4年(813年)には、藤原冬嗣が父・藤原内麻呂の追善供養のために南円堂を建立しました。これにより、中心伽藍の構成が完成し、現在の興福寺の原型が形作られたといわれています。

興福寺と春日大社の関係

神仏習合と政治的影響

藤原氏が氏神として創建した春日大社(旧・春日社)とは、興福寺は密接な関係を築きました。神仏習合思想の進展に伴い、「春日明神は法相宗を護る神」として、天暦元年(974年)には春日社にて読経が始まりました。

その後、保延元年(1135年)に春日若宮が創設され、興福寺による春日社の影響力が強まり、明治時代の神仏分離までその関係は続きました。

神木動座と入洛強訴

こうした神仏習合関係は時に政治的手段ともなり、「神木動座」「入洛強訴」という方法で朝廷に強い影響力を与えました。例えば寛治7年(1093年)の事件では、近江守・高階為家に対する処罰を求めて神木が動座し、最終的に土佐国への流罪が実現されました。

南都北嶺と呼ばれた勢力

平安時代以降、興福寺は比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称されるまでの力を持ち、大和国の荘園の大部分を支配していました。その周囲には多数の子院が並び、最盛期には100か院を超えたとされます。

中でも一乗院(970年創立)大乗院(1087年創立)は、皇族や摂関家の子弟が入寺する格式高い門跡寺院として特に栄えました。

興福寺の歴史と美しき伽藍

奈良県奈良市にある興福寺は、藤原氏の氏寺として古代より栄え、数多くの国宝・重要文化財を所蔵する日本仏教史における名刹です。その中心に位置する中金堂、荘厳な仏像が安置された東金堂、そしてそびえ立つ五重塔は、いずれも長い歴史と文化的価値を持っています。

中金堂 ― 興福寺の中心を担う堂宇

再建された壮麗な第9代中金堂

2018年(平成30年)10月、長年の念願であった中金堂が再建されました。これが9代目の建物です。創建は平城京遷都直後の和銅3年(710年)頃とされ、藤原鎌足の遺志を継いだ藤原不比等によって、寺の中心的な堂として建立が始められました。和銅7年(714年)に完成したと伝えられています。

その後、東金堂や西金堂が建てられたことで、中央の位置にある本堂は「中金堂」と呼ばれるようになりました。しかし、幾度となく火災によって焼失と再建を繰り返し、江戸時代の享保2年(1717年)の火災以降、1世紀以上も再建されることがありませんでした。

仮堂としての文政再建とその後

文政2年(1819年)、篤志家たちの寄進により仮堂として中金堂が再建されました。この堂は規模も小さく、朱色に塗られていたことから「赤堂」とも呼ばれ親しまれました。しかし、長期使用を想定していない安価な材料で建てられたため、雨漏りなどの劣化が進みました。

1974年には仮金堂(現・仮講堂)が建てられ、千手観音立像などの仏像はそちらに移されました。老朽化が著しかった文政の中金堂は2000年に解体され、その後発掘調査を経て、創建当初の様式を踏まえた新たな中金堂の再建が始まりました。そして、2018年、ついに壮麗な9代目中金堂が完成したのです。

堂内に安置される主な仏像

東金堂 ― 薬師如来を祀る霊場

由緒ある再建と国宝の建築

東金堂は、神亀3年(726年)に聖武天皇が伯母・元正上皇の病気平癒を祈って建立された薬師三尊を安置するための堂です。幾度かの焼失と再建を経て、現在の建物は室町時代の応永22年(1415年)に再建された5代目のものです。

建物は桁行七間・梁間四間、一重寄棟造、本瓦葺で構成されており、国宝に指定されています。東金堂はまた、西国薬師四十九霊場の第4番札所にもなっています。

堂内の諸仏

五重塔 ― 興福寺の象徴的建造物

興福寺の五重塔は、1426年(応永33年)に再建された6代目の建造物で、国宝に指定されています。高さ50メートルを超える塔は、古都奈良の風景の中でもひときわ目を引く存在で、現在もその美しい姿を保っています。塔内には仏舎利を安置し、興福寺の象徴として親しまれています。

おわりに

興福寺の中金堂・東金堂・五重塔は、歴史的価値と芸術的魅力を兼ね備えた文化財であり、奈良を訪れる際には必ず足を運びたいスポットです。悠久の歴史と共に受け継がれてきた信仰の証を、ぜひその目でご覧になってみてください。

Information

名称
興福寺
(こうふくじ)
リンク
公式サイト
住所
奈良県奈良市登大路町48
電話番号
0742-22-7755
営業時間

9:00~17:00

料金

拝観料
大人・大学生 700円
高校生・中学生 600円
小学生 300円

国宝館・東金堂連帯共通券
大人・大学生 900円
高校生・中学生 700円
小学生 350円

駐車場

有料

アクセス

JR奈良駅から奈良交通バス(市内循環外回り)「県庁前」下車すぐ
近鉄奈良駅から徒歩約5分

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