白毫寺は、奈良県奈良市白毫寺町に位置する真言律宗の寺院で、山号を高円山(たかまどやま)といいます。本尊は阿弥陀如来で、開山は奈良時代の高僧・勤操(ごんそう)と伝えられています。奈良市街地の東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内からは奈良盆地を一望できる風光明媚な立地が大きな魅力です。
寺名の「白毫」とは、仏の眉間にある白く輝く巻き毛を指し、仏の智慧と慈悲を象徴する言葉です。その名の通り、白毫寺は静けさと精神性に満ちた、心を落ち着かせてくれる寺院として親しまれています。
白毫寺の草創については明確な記録が残されておらず、いくつかの説が伝えられています。その一つが、天智天皇の皇子・志貴皇子(しきのみこ/施基皇子)の山荘跡に建立されたという伝承です。境内には、志貴皇子が詠んだとされる和歌を刻んだ万葉歌碑が立ち、古代からこの地が文化的・精神的に重要な場所であったことを今に伝えています。
また、『諸寺縁起集』によれば、白毫寺は空海の師として知られる三論宗の僧・勤操によって開かれた岩淵寺の子院であったともいわれ、奈良仏教の流れをくむ由緒ある寺院であることがうかがえます。
白毫寺の歴史において大きな転機となったのが鎌倉時代です。建武2年(1335年)成立の『南都白毫寺一切経縁起』によれば、白毫寺は真言律宗の祖であり、西大寺を中興したことで知られる叡尊(えいそん/興正菩薩)によって再興されたと伝えられています。
さらに、叡尊の高弟である道照が中国・宋から宋版一切経を請来し、弘長2年(1262年)に経蔵を建立してこれを安置したことから、白毫寺は「一切経寺」とも呼ばれるようになりました。この一切経は当時としては極めて貴重な仏教経典群であり、白毫寺が学問と信仰の拠点であったことを物語っています。
しかし白毫寺は、その長い歴史の中で幾度も戦火に見舞われました。明応6年(1497年)には古市氏と筒井氏の争いに巻き込まれ、本堂や閻魔堂、多宝塔、一切経蔵など多くの堂宇が焼失しました。さらに永正17年(1520年)にも再び兵火に遭い、寺勢は大きく衰退します。
江戸時代初期の寛永年間、興福寺の学僧・空慶によって復興されますが、宝暦7年(1757年)には失火によって再び焼失し、現在残る建物はいずれも近世以降に再建されたものです。それでも、数々の仏像は難を逃れて現存し、今日まで白毫寺の信仰を支えています。
現在の本堂は江戸時代初期に再建されたもので、奈良市指定有形文化財に指定されています。境内の宝蔵(資料館)には、本尊の阿弥陀如来坐像をはじめ、閻魔王坐像や太山王坐像など、鎌倉時代を代表する重要文化財の仏像群が安置されています。
白毫寺は花の寺としても知られ、特に秋になると参道の石段を覆う萩の花が境内を彩ります。また、県指定天然記念物である五色椿は、寛永年間に興福寺の塔頭・喜多院から移植された古木で、「奈良三名椿」の一つに数えられ、春には訪れる人々を魅了します。
境内には、かつて室町時代に建てられた多宝塔の礎石が残り、往時の伽藍の規模をしのばせます。また、志貴皇子の歌を刻んだ万葉歌碑が静かに佇み、古代から続くこの地の歴史を今に伝えています。
白毫寺には、阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩立像、興正菩薩叡尊坐像、閻魔王坐像とその眷属像など、数多くの重要文化財が伝わっています。なかでも太山王坐像は、運慶の孫・康円の作と判明しており、鎌倉彫刻史上きわめて貴重な存在です。
毎年1月と7月に行われる「えんまもうで」や、4月の一切経法要などの年中行事は、現在も多くの参拝者を集め、白毫寺の信仰が脈々と受け継がれていることを感じさせます。
白毫寺は、関西花の寺二十五霊場や大和北部八十八ヶ所霊場にも数えられる由緒ある札所です。奈良市街地から少し離れた高台に位置するため、喧騒を離れてゆったりと散策を楽しむことができます。
アクセスは、奈良交通市内循環バス「高畑町」下車、徒歩約20分。石段を登った先に広がる境内と、そこから望む奈良盆地の眺望は、訪れる人の心に深い余韻を残してくれることでしょう。