鹿せんべいは、奈良市の奈良公園周辺に生息する「奈良の鹿」に与えるための、せんべい状の餌です。奈良公園内や周辺の売店で販売されており、観光客が鹿と触れ合う際に欠かせない存在として広く知られています。奈良観光といえば鹿、そして鹿といえば鹿せんべいを思い浮かべる方も多いでしょう。
鹿せんべいの歴史は非常に古く、江戸時代前期の1670年代にはすでに販売されていたと伝えられています。1791年(寛政3年)に刊行された『大和名所図会』には、春日大社周辺の茶屋で、客が鹿に平たい餌を与えている様子が描かれており、当時から鹿と人との交流が奈良の風物詩であったことが分かります。
現在「鹿せんべい」という名称は、一般財団法人奈良の鹿愛護会の登録商標となっています。愛護会は鹿せんべい自体を製造・販売しているわけではなく、公式の証紙を発行・販売する役割を担っています。この証紙制度は1913年(大正2年)に始まり、鹿の保護活動のための資金確保を目的として導入されました。
公式の鹿せんべいは、鹿のマークが入った白地の証紙で十文字に束ねられています。この証紙は、鹿が誤って食べてしまっても害がないよう、100%パルプ素材や大豆インク、食べられる糊で作られています。証紙の売上は年間約3,000万円にのぼり、負傷した鹿の治療や出産時の保護活動など、さまざまな保護事業に活用されています。
鹿せんべいの価格は時代とともに変化してきました。1991年までは100円、2019年までは150円、そして2019年10月以降は200円となっています。消費税増税の際には価格を据え置く代わりに、サイズや厚みを調整した製造業者もありました。
近年では、夕方以降に鹿せんべいが買えないという声を受け、2022年から「I LOVE シカ自動販売機」が設置されました。春日大社鹿苑や駐車場の休憩所に設置され、1箱に1束(10枚)入りで、時間を気にせず購入できるようになっています。
鹿せんべいの材料は非常にシンプルで、米ぬかと小麦粉のみから作られています。砂糖や塩、保存料などの食品添加物は一切使用されていません。鹿の消化に配慮し、焦げや油分のない新鮮な米ぬかが使われています。
人間が食べても害はありませんが、味付けはされておらず、あくまで鹿のための餌です。焼きたては香ばしいと感じることもあるようですが、飲み込みにくく後味も良くないとされており、人が食べることは推奨されていません。
奈良公園の鹿は野生動物であり、鹿せんべいによって飼育されているわけではありません。主食は芝生や木の葉、ドングリなどの植物で、1日に約5キログラムもの植物を食べるとされています。鹿せんべい1枚は3〜4グラム程度で、何十枚食べても「おやつ」に過ぎません。
鹿たちは日の出頃に泊まり場から採食場へ移動し、夕方になると再び泊まり場へ戻って反すうしながら休むという、自然に即した生活を送っています。
鹿せんべいを購入すると、鹿たちが周囲に集まってきます。まずは束ねている証紙を素早く外し、1枚ずつためらわずに与えることが大切です。じらすと、鹿が服を引っ張ったり、頭突きをしたりすることがあります。
奈良の鹿がよく見せる「おじぎ」は、鹿せんべいを求める行動です。鹿せんべいがなくなったら、両手をパッと開いて「もう持っていない」ことを示しましょう。匂いで分かるため、隠しても意味はありませんが、無視して早足で立ち去ると、多くの鹿はあきらめます。
鹿は人に慣れていますが、決して飼いならされた動物ではありません。特に小さな子どもは軽く見られ、噛まれたり蹴られたりする危険があります。必ず大人が付き添い、安全に配慮してください。
「奈良の鹿は鹿せんべいの販売所を襲わない」という話を耳にすることがありますが、これは必ずしも事実ではありません。観光客が少ない時間帯には、鹿が隙を見て販売所のせんべいを狙うこともあります。
販売員は手を叩いたり声をかけたりして鹿を制止し、直接商品を食べないよう日々工夫を重ねています。人と鹿の穏やかな共存は、こうした努力によって成り立っているのです。
若草山では、1993年から毎年「鹿せんべい飛ばし大会」が開催されています。春分の日前後やゴールデンウィーク、夏休み期間に行われ、直径約20センチの特製鹿せんべいを投げて飛距離を競います。
鹿が食べてしまった場合は、その地点までの距離を記録とするなど、奈良ならではのユニークなルールが特徴です。歴代最高記録は74.55メートルで、多くの参加者が楽しむ人気イベントとなっています。
奈良公園では、鹿に与えてよい餌は鹿せんべいのみと定められています。お菓子やパン、野菜などを与えると、病気や事故の原因となるため絶対にやめましょう。ビニール袋や紙類も誤食の恐れがあるため注意が必要です。
鹿せんべいは、江戸時代から続く奈良の鹿と人との共生文化を象徴する存在です。正しい知識とマナーを守りながら、鹿とのふれあいを楽しむことで、奈良観光はより深く、思い出深いものとなるでしょう。