奈良県 > 奈良市・生駒市 > 淨教寺(奈良市)

淨教寺(奈良市)

(じょうきょうじ)

奈良市街地に息づく浄土真宗の古刹

淨教寺は、奈良県奈良市上三條町に位置する、浄土真宗本願寺派の寺院です。山号を九条山と称し、本尊には阿弥陀如来立像を安置しています。近鉄奈良駅やJR奈良駅から徒歩圏内という市街地の中心にありながら、境内に一歩足を踏み入れると、静謐で落ち着いた空気に包まれる寺院として、多くの参拝者や観光客に親しまれています。

開創と親鸞聖人に連なる由緒

寺伝『淨教寺由緒略記』によれば、淨教寺の開基は行延法師とされています。行延はもともと河内国八尾の庄司で、真野将監行延と名乗る武勇と知略を兼ね備えた武士でした。寛元2年(1244年)3月、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の直弟子となり、出家して法名「行延」を賜ったことが、寺のはじまりと伝えられています。武士から僧へと生涯を転じた行延の歩みは、当時の社会背景を映すとともに、淨教寺の精神的基盤を形づくっています。

中世を生き抜いた寺院と楠木氏との縁

第6世住持の円誓の代には実子がいなかったため、楠木正季の孫にあたる人物が養子となり、空信の法名を授かって第7世を継いだと伝えられています。この縁により、淨教寺では楠木氏ゆかりの「九耀菊水」を定紋として用いるようになりました。また、北朝の光明天皇から勅願所に定められ、「称仏明院」の号を賜ったことも、寺の歴史における大きな出来事です。

移転の歴史と寺号「淨教寺」の成立

11世行心の時代、享禄3年(1530年)には河内国から大和国添下郡冨庄西城村へと移転し、さらに12世行春の代には九条の里に一時移ったとされています。この頃から山号を九条山と称するようになりました。天正19年(1591年)、石山合戦における忠節を顕如上人から高く評価され、御染筆によって「淨教寺」の寺号を賜るとともに、石山本山内仏の阿弥陀如来を拝領したことは、現在の淨教寺の礎となっています。

現在地への定着と江戸時代の発展

慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條の寺地を拝領し、淨教寺は現在の地へと移転しました。江戸時代には本願寺の役寺として、末寺との連絡や奈良奉行、さらには小泉城主片桐氏との折衝など、宗務・地域社会の両面で重要な役割を果たしてきました。寺内には、当時の法要や儀礼を伝える貴重な古文書も数多く残されています。

近代に甦った本堂と建築的価値

享和2年(1802年)に建立された本堂は、昭和11年(1936年)の火災により焼失しました。その後、24世住持・島田義昭のもとで復興が計画され、昭和43年(1968年)に新たな本堂が完成します。設計を手がけたのは、奈良県技師として伝統建築に精通した岸熊吉氏で、資材不足という困難な時代背景の中でも、妥協のない設計思想が貫かれました。

本堂は、本願寺の御影堂・阿弥陀堂に倣い、防火を意識した塗込め構造を内陣に採用し、円柱と角柱を巧みに組み合わせることで、堅牢さと美しさを兼ね備えています。匂欄や擬宝珠、蟇股や鬼板の意匠には鎌倉時代以来の浄土真宗建築の精神が表現され、近代における復古建築の名作として高く評価されています。

文化財と見どころ

淨教寺本堂は登録有形文化財に指定されており、その価値は建築史の観点からも注目されています。また、江戸末期に建てられた山門は、動植物や雲、渦などの精緻な彫刻が施された均整の取れた建造物です。昭和8年(1933年)築の掲示板舎も、小規模ながら丁寧な意匠が光ります。

奈良市指定文化財のソテツ

境内には、根株周囲約6.5メートル、一本の株から25本もの幹を伸ばすソテツが植えられており、樹齢は約250年と推定されています。この珍しい姿は、奈良市指定文化財として大切に保護され、参拝者の目を楽しませています。

寺宝と信仰の遺産

淨教寺には、鎌倉時代の作と伝わる本尊阿弥陀如来立像をはじめ、蓮如上人筆の六字名号、寂如上人の御影、本如上人筆の梅花黄鶯図など、浄土真宗の歴史を物語る寺宝が数多く伝えられています。これらは、長い信仰の積み重ねを今に伝える貴重な文化遺産です。

交通アクセス

近鉄奈良駅7-S出口から徒歩約4分、JR奈良駅東口から徒歩約8分と、観光の拠点としても非常に便利な立地にあります。奈良町散策や市街地観光の途中に立ち寄り、歴史と建築、そして静かな祈りの空間を味わうのにふさわしい寺院です。

Information

名称
淨教寺(奈良市)
(じょうきょうじ)

奈良市・生駒市

奈良県