願行寺は、奈良県吉野郡下市町に位置し、秋野川の左岸、御坊山の麓に佇む由緒ある寺院です。浄土真宗本願寺派に属し、山号を「至心山(ししんざん)」と称します。地元では「下市御坊」の名で親しまれています。
願行寺の起源は古く、本願寺第三世である覚如(かくにょ)の長子・存覚(ぞんかく)の廟がもともとあった古御坊に遡ります。この古御坊を、八世蓮如(れんにょ)が明応年間(1492年〜1501年)に現在の地へ移し、吉野地方における浄土真宗の布教拠点としたのが始まりです。
存覚は南北朝時代の康永2年(1343年)から貞和5年(1349年)にかけて、たびたび大和国を訪れています。その際、現在の下市町の地に足を運んだと考えられており、この地にゆかりを持つ理由とされています。
明応4年(1495年)の春、蓮如が下市において願行寺を建立したと『蓮如上人拾塵記』に記されています。寺に伝わる金泥九字名号(なんまんだぶつ)は、明応3年(1494年)に堺の信証院に安置されていたものであり、これが本尊として用いられたと考えられています。
蓮如は明応2年(1493年)、多くの末寺を従えて帰参した勝恵(しょうけい)に、自らの十一女・妙勝(みょうしょう)を嫁がせ、「勝林坊(しょうりんぼう)」の号を授けました。勝恵は一時、山城国三栖に住んでいましたが、妙勝が明応9年(1500年)に没した後、蓮如の十三女・妙祐(みょうゆう)を再び妻とし、願行寺の住持となりました。
このような経緯を経て、願行寺は「勝恵の坊号」をもって寺号としていたようです。
願行寺の名が文献上で初めて現れるのは、天文19年(1550年)に描かれた本願寺九世・実如(じつにょ)の絵像の裏書においてです。その中で「願行寺」として明確に記されています。
天正6年(1578年)10月11日、願行寺は本願寺門徒の拠点として知られていたため、織田信長の家臣である筒井順慶(つついじゅんけい)によって、飯貝の本善寺とともに焼討ちに遭いました。その後も復興を果たし、本願寺が東西に分かれた際には西本願寺方に属しました。
戦国時代から江戸時代にかけて、願行寺は本善寺とともに「一家衆」として大和国において特別な地位を占めていました。最盛期には、大和・近江・摂津の70以上の末寺を有し、寺内にも3つの寺を抱えて寺役を分担させていました。まさに中本山として寺運は非常に盛んでした。
江戸幕府は願行寺の境内一町五畝、山林四町四段七畝を除地として認め、代官が交代する際には門前に制札を掲げて保護していました。また、享保年間には、境内の御坊山にあった薬草園に幕府の採薬師・植村佐平治を派遣し、薬草栽培の指導を行わせています。
願行寺の境内には、本堂・蓮如堂・輪蔵・鐘楼・大中書院・客殿・庫裏といった建物があり、その多くが室町時代末期から江戸時代中期にかけての建築です。
本堂は天正年間に再建されたもので、焼討ち後に復興されたものです。その後も大修理が行われていますが、古風な形式を今に伝える本格的な浄土真宗寺院として貴重な遺構とされています。
書院の南側には、奈良県指定名勝にもなっている庭園があります。面積は218平方メートルで、準平庭(じゅんへいてい)形式の枯山水庭園です。穏やかな石組みを主体とし、室町時代末期の庭園構造を今に伝える貴重な文化財といえます。
願行寺には以下のような歴史的に貴重な寺宝が所蔵されています。
これらの文化財はいずれも、願行寺の歴史と信仰の深さを物語る重要な遺産です。
願行寺は、奈良県下市町の静かな山間に位置しながらも、歴史的にも文化的にも非常に重要な寺院です。浄土真宗の信仰の拠点としてのみならず、建築や庭園、寺宝の保存を通じて、日本の宗教文化の一端を今に伝える貴重な存在です。静かな時間の中で、深い歴史と信仰の息吹に触れてみてはいかがでしょうか。