世尊寺は、奈良県吉野郡大淀町比曽に位置する曹洞宗の寺院で、山号は「霊鷲山(りょうじゅせん)」と称されます。本尊には阿弥陀如来(放光樟像)を安置しており、聖徳太子霊跡第7番札所としても知られています。
古代よりこの地に存在した寺院は、かつて「比曽寺(ひそでら、または比蘇寺)」と呼ばれており、大規模な伽藍を擁していたと伝えられます。現在の世尊寺は江戸時代に再興され、規模を縮小して整備されたものですが、寺域跡は昭和2年(1927年)に「比曽寺跡」として国の史跡に指定されています。
創建は古く、聖徳太子が建立したとされる48寺の一つであり、当初は「吉野寺」とも称されていました。飛鳥時代後半(7世紀)には既に存在していたとされ、当時の瓦や伽藍の配置からそのことが伺えます。三重塔を有する薬師寺式伽藍があったと推定されています。
奈良時代には「吉野寺比曽(比蘇)山寺」として知られ、渡来僧・道璿(どうせん)が修行に励んだ地とされます。また、高僧・神叡が長く住し、三蔵を学んで智慧を得たとも伝わります。平安時代には「現光寺」の名でも呼ばれ、本尊の仏像が光を放つという逸話から由来したといわれています。
『日本書紀』欽明天皇14年の記述によると、河内国の茅渟の海(現在の大阪湾)から楽の音とともに光り輝く樟木が出現し、これを用いて仏像が二体造られたとあります。その一体が現在の世尊寺に安置される阿弥陀如来坐像とされています。
『日本書紀』推古天皇3年の条には、南海から漂着した香木「沈水香」を用いて聖徳太子が観音像を造ったという話が記されています。この像も光を放ったとされ、比曽寺に祀られていたといいます。
清和天皇や宇多上皇、藤原道長らが参詣するなど、当寺は隆盛を誇りました。鎌倉時代には金峯山から来た春豪聖人が再興を試み、また叡尊が滞在して真言律宗となりました。南北朝時代には後醍醐天皇が行幸し、「栗天奉寺(りってんほうじ)」と命名され勅願寺となる栄誉を受けました。
戦国時代、東塔は豊臣秀吉の命により解体され、伏見城に移築された後、徳川家康によって近江の園城寺(三井寺)に再建され、現在も重要文化財として残っています。一方、西塔は戦乱で焼失しました。
江戸時代には法輪寺の支援により浄土宗へ改宗し再興されますが、法輪寺の焼失により再建は一時中断されました。後に曹洞宗に改宗し、寛延4年(1751年)、雲門即道によって現在の霊鷲山世尊寺として整備・縮小された形で再建されました。
俳聖・松尾芭蕉もこの地を訪れており、「世にさかる 花にも念佛 まうしけり」という句を詠んでいます。その句碑は現在、本堂裏手の納骨堂付近に建てられています。
東塔跡と西塔跡にはそれぞれ三重塔の礎石が残されており、寺伝では、聖徳太子が亡父・用明天皇の供養のために東塔を、推古天皇が亡夫・敏達天皇の供養のために西塔を建立したと伝えられています。
公共交通機関でのアクセス:
近鉄吉野線「六田駅」より奈良交通バス「比曽口」下車、徒歩約15分。
大淀町の「よどりバス」幹線ルートおよび循環ルートの「北野台5丁目」停留所からは徒歩約5分。
また、よどりタクシーには「世尊寺前(東6)」という停留所がありますが、こちらは事前登録を行った大淀町民のみが利用可能ですのでご注意ください。