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丹生川上神社 下社

(にう かわかみ じんじゃ しもしゃ)

奈良県吉野郡下市町長谷に鎮座する丹生川上神社下社は、日本古来の水神信仰を今に伝える由緒ある神社です。式内社の名神大社であり、さらに二十二社のうち「下八社」の一社としても知られています。かつては官幣大社という高い社格を誇り、現在は神社本庁の別表神社として登録されています。

名称と位置づけ

この神社の名称「下社」は、吉野郡川上村にある「上社」との位置関係によるものであり、川上の水源とその流れの守り神として上下関係で信仰されています。

ご祭神

主祭神:闇龗神(くらおかみのかみ)

かつては高龗神(たかおかみのかみ)を祀っていましたが、大正時代の祭神変更により、現在は闇龗神が祀られています。また一説には、この神社で祀られる神は「丹生大明神」とされ、和歌山県の丹生都比売神社と同様に丹生都比売神を本来の祭神とするという説も存在しています。

神社の歴史

創建伝承と水神信仰

社伝によれば、洪水によって流れてきた鳥居を神体として祀ったのが創祀とされています。神社の背後には丹生山があり、その山頂には古代祭祀遺跡とされる石群が存在します。周辺には丹生川が流れ、丹生神社が点在しており、御酒井・五色井など多くの井戸も湧出していたことから、古代からの水神信仰の中心地であったと考えられています。

近世から近代への展開

江戸時代以降、式内社に関する考証が進められる中で、「丹生大明神」と称されていたこの神社が式内丹生川上神社に比定されるようになり、宝永7年(1710年)には中御門天皇の勅使が派遣され、祈雨の奉幣が行われました。幕末には孝明天皇より国家安泰や攘夷の祈願も寄せられ、二十二社の一社としての地位を確立しました。

明治時代以降の動向

明治4年には官幣大社に列格しましたが、その後、丹生川上神社の式内社としての正当性が問われ、当社は「口の宮」、上社は「奥の宮」と再編されました。さらに大正時代に入ると、新たに「中社」が追加され、現在は上社・中社・下社の三社構成となっています。

戦後の独立と現在

第二次世界大戦後の昭和27年(1952年)、当社は独立し、現在は神社本庁に所属する別表神社となっています。

神職と社家

川上六家と神事係

明治5年までは「公文所」や「社人」と呼ばれる世襲の神職が存在し、「橋本」「乾」「河合」「中井」「向井」「今西」の6家は「川上六家」と称されました。彼らの子孫は現在でも神事係として神社に関わり続けています。

境内の見どころ

社殿の構造

本殿は三間社流造で、屋根には千木と鰹木が施されています。現在の建物は文久3年(1863年)の天誅組の兵火によって焼失後、明治18年に再建されたものです。拝殿は70段の木階を下った位置にあり、明治34年に復興されました。

神馬と絵馬の起源

かつては朝廷から雨乞いの際に「黒馬」、晴れ祈願には「白馬」が奉納されました。これが絵馬の起源とされ、京都・貴船神社へと伝えられたといいます。現代でも水害の復興を願い、2012年に神馬献上祭が約600年ぶりに復活しました。

牛石・蛙石

牛石はその形が牛に似ていることから名付けられ、大正時代に地元青年が丹生川から引き上げて奉納しました。蛙石は立ち上がった蛙に似ており、「静の牛」と「動の蛙」という対照的な意味を持つ石として知られています。

産霊石(むすびいし)

男女の象徴が重なり合う形の石で、底には10センチほどの穴が開いています。子宝を授かった信者が、丹生川で禊を行った際に見つけた石を奉納したもので、子授け・安産祈願のご利益があるとされています。

御食の井(みけのい)

「いのちの水」とも呼ばれる御神水が湧く井戸で、古来より神事に使われてきた神聖な場所です。

摂末社

主な年中行事

例祭(6月1日)

氏子各戸から朴の葉で包んだ鯖の姿鮨が「人身御供」として供えられる特別な風習が残っています。

太鼓(古)踊り

雨乞いが叶った喜びを表現する神事芸能で、平成13年には奈良県の無形民俗文化財に指定されました。

文化財

奈良県指定 無形民俗文化財

・太鼓(古)踊り

アクセス情報

所在地

奈良県吉野郡下市町長谷1-1

交通アクセス

近鉄吉野線「下市口駅」から奈良交通バスに乗車し、「長谷」バス停下車すぐです。

Information

名称
丹生川上神社 下社
(にう かわかみ じんじゃ しもしゃ)

吉野・天川村・十津川

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