勝手神社は、奈良県吉野郡吉野町、世界的にも名高い吉野山の中腹に鎮座する由緒ある神社です。古くは「勝手明神」「吉野山口神社」とも称され、延喜式に名を連ねる格式高い式内社として知られてきました。吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一社に数えられ、古来より山岳信仰、修験道、そして芸能や勝負事に深く関わる信仰の拠点として、多くの人々の崇敬を集めてきました。
勝手神社の現在の主祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)で、そのほかに大山祇命、久久能智命、木花佐久夜比咩命、苔虫命、葉野比咩命の五柱が配祀されています。古記録『和漢三才図会』には、祭神を「愛鬘命(受鬘命)」と記した例もあり、時代とともに信仰の解釈や表現が変遷してきたことがうかがえます。
「勝手」という社名は、「入り口」「下手(しもて)」を意味する言葉に由来するとされ、吉野山の入口を守る神としての性格を持っていました。その字面から転じて、勝負運・勝運の神としての信仰が広まり、戦国時代以降は武将や武士からも厚く信仰されるようになります。神仏習合の時代には、勝手明神の本地仏は毘沙門天とされ、武運長久を願う信仰はいっそう強まりました。
勝手神社の創建年代は明確ではありませんが、『日雄寺継統記』によれば、孝安天皇六年(紀元前386年)にさかのぼると伝えられています。とりわけ有名なのが、大海人皇子(のちの天武天皇)にまつわる伝承です。大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、その音色に誘われて天女が舞い降り、五度袖を振りながら舞ったとされます。
この伝説から、社殿背後の山は「袖振山」と呼ばれるようになり、また、この故事が宮中で行われる「五節の舞」の起源になったとも伝えられています。勝手神社は、単なる神社にとどまらず、日本古来の芸能文化の源流を今に伝える特別な場所でもあるのです。
境内には、源義経の愛妾として知られる静御前にまつわる史跡「舞塚」が残されています。義経と別れた後、追っ手に捕らえられた静御前が、この勝手神社の前で法楽の舞を舞ったと伝えられています。哀切に満ちたこの伝説は、多くの人々の心を打ち、今なお義経や静御前を偲んで参拝する人が後を絶ちません。
こうした物語性の豊かさも、勝手神社が「芸能の神」として信仰されてきた理由の一つであり、舞や音楽、芸の上達を願う人々にとって、特別な祈りの場となっています。
かつての勝手神社の本殿は、三間社流造の連棟社殿で、正面左右に千鳥破風を配した桧皮葺の美しい建築でした。全国的にも類例の少ない形式で、細部の意匠に至るまで優美で、日本建築の粋を集めた貴重な社殿として高く評価され、奈良県の有形文化財にも指定されていました。
棟札によれば、この本殿は慶長年間に豊臣秀頼によって再建され、その後も正保元年(1644)、明和四年(1767)など、幾度も焼失と再建を繰り返してきました。そのたびに、先人たちは決して絶望することなく、信仰の力によって社殿を甦らせてきたのです。
しかし平成13年(2001年)9月、不審火によって本殿は無念にも焼失しました。このとき御神体は向かいに鎮座する吉水神社へ遷され、勝手神社は再建に向けた歩みを始めることとなります。現在では新たな社殿が整えられ、再び本来の鎮座地へ御遷座が行われ、復興への祈りとともに信仰が受け継がれています。
勝手神社は、金峯山寺の蔵王権現、吉野水分神社の子守明神とともに「三所権現」として信仰されてきました。勝手明神は男神、子守明神は女神とされ、夫婦神としての関係も語られています。室町時代に成立した能「嵐山」では、勝手明神と子守明神が老夫婦に姿を変えて現れ、蔵王権現と三身一体であることを示す物語が描かれています。
勝手神社は、全国二十八社ある勝手神社の総本社であり、今も多くの氏子や崇敬者が参拝に訪れます。また、吉野山観光の中枢に位置し、春には桜、夏には深い緑、秋には紅葉と、四季折々の美しい景観に包まれます。袖振山を背にした境内は、「心が癒される場所」として、訪れる人々に静かな感動を与えてくれます。
近鉄吉野駅より吉野ロープウェイに乗車し、山上駅下車後、徒歩約15分。吉野山散策の途中に立ち寄ることができる、歴史と物語に満ちた神社です。