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永慶寺(大和郡山市)

(えいけいじ)

大和郡山市に佇む歴史ある黄檗宗寺院

永慶寺は、奈良県大和郡山市永慶寺町に位置する黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、山号は龍華山(りゅうげさん)と称されます。本尊には釈迦三尊が祀られ、静かな環境の中で訪れる人々の心を癒しています。

寺院の起源と移転の歴史

山梨県甲府市における創建

永慶寺の起源は現在の山梨県甲府市岩窪町にあります。この地域は、甲府盆地の北縁にあたり、武田氏の居館跡や武田信玄の墓所、甲府五山のひとつである円光院など、多くの歴史的名所が集まる地でもあります。

この寺は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の側近であった柳沢吉保により創建されたとされ、黄檗宗の高僧である悦峯道章(えっぽうどうしょう)が迎えられて建立されました。これは、『甲斐国志』などの史料にも記されています。

柳沢吉保と永慶寺

宝永元年(1704年)、柳沢吉保が甲府藩主に任命されたことに伴い、永慶寺の創建が本格的に進められました。吉保は甲府に下向することはなかったものの、城下では文化事業が盛んに行われ、黄檗宗を厚く信仰した彼は、自身の菩提寺として永慶寺の建立に力を注ぎました。

吉保はまた、『龍華山御建立以来諸色書留』や『楽只堂年録』といった史料に記されているように、寺領として岩窪村および下積翠寺村に370石を寄進し、幕府から菩提寺を古跡と同等に扱うことを許可されるなど、国家的な認可のもとで寺院の整備が行われていきました。

永慶寺の伽藍と文化

伽藍配置は、南側に惣門、中央に仏殿、その北に方丈を配置し、東には鐘楼・斎堂、西には禅堂・祠堂を配するなど、黄檗宗の総本山・萬福寺に似た構成となっていました。また、本尊である釈迦如来像および脇侍像は京都で製作され、調度品の多くも吉保の寄進によるものです。

奈良への移転

享保9年(1724年)、甲斐国が幕府の直轄領となり、柳沢家は奈良県大和郡山へ転封されました。これにより、永慶寺も現在の奈良県に移転することとなりました。ただし、寺領の安堵は得られず、甲府の永慶寺は廃寺となります。吉保夫妻の遺骨は、甲州市の恵林寺へ改葬されました。

永慶寺の文化財と遺産

柳沢吉保と夫人の坐像

永慶寺には、柳沢吉保とその正室・曽雌定子の坐像が安置されています。これらの像は、木造で彩色が施され、目には玉眼が入れられた精巧な造りとなっており、江戸時代の仏師・大下浄慶(常慶)およびその子である次郎右衛門・杢右衛門によって制作されました。

吉保像は黒袍に束帯姿、冠をかぶり笏を持つ格式高い姿で表現され、太刀を帯びています。一方、夫人像は五衣・紅袴を身にまとい、右手に横扇を携え、鏡を備えています。両像とも、永慶寺の香厳殿という仏間に安置されています。

太刀「銘 山城守国重」

吉保像には、「太刀 銘山城守国重」と呼ばれる名刀が付属しています。この刀は、全長42.5センチメートル、反り17.5センチメートルの鉄製で、拵(こしらえ)は梨子地に柳沢家の家紋である花菱紋が蒔絵で描かれた美しい仕上がりです。拵は糸巻太刀の形式で、江戸時代18世紀の作とされています。

なお、恵林寺にも吉保像が伝わっており、永慶寺像と様式や大きさが一致していることから、柳沢家の転封に伴い、同一の仏師が一対で製作したと考えられています。

永慶寺の現在と魅力

異国情緒と静寂の中で

現在の永慶寺は、大和郡山市の静かな住宅地にありながら、黄檗宗ならではの異国情緒が感じられる独特の雰囲気を持ち続けています。寺内には、吉保にゆかりのある文化財が多数所蔵されており、柳沢文庫と並ぶ貴重な歴史資料の宝庫でもあります。

また、参拝者にとっては静謐な空気の中で歴史に触れられる場所であり、歴史散策の一環として訪れる人々に深い感銘を与えています。

まとめ

永慶寺は、柳沢吉保の信仰と文化への思いが形となって残る貴重な寺院であり、その歴史は甲府から奈良へと時代を超えて継承されてきました。仏像や太刀といった文化財に込められた願い、寺院の移転に込められた歴史の流れを今に伝える場所として、多くの人々にとっての訪問価値を持つ寺院です。

Information

名称
永慶寺(大和郡山市)
(えいけいじ)

天理・法隆寺

奈良県