小泉城は、奈良県大和郡山市小泉町にあった中世以来の平城です。別名を片桐城・小泉陣屋ともいい、江戸時代には小泉藩の藩庁が置かれました。興福寺衆徒小泉氏の居館を起源とし、のちに片桐氏が城主として明治維新まで治めました。
小泉城は、現在の大和小泉駅の西北約600m、富雄川と湿田に挟まれた台地先端上に築かれていました。この地形により東側は天然の堀となり、城の防御性を高めています。
主郭は西側台地上にあり、内堀で囲まれた150m四方の区画でした。延宝元年(1673年)完成の記録が残る内堀の外側には、外堀として「薙刀池」「お庭池」が配され、堀と池が城域を取り巻いていました。
南側には部分的に土壁(帯曲輪の土塁跡)が残り、北・西北・南の三か所に門が設けられていました。現存する小泉神社の表門(冠木門・高麗門)は当時の門を移築したものといわれています。また城跡入口には「小泉城」「片桐城」の石碑が建てられています。
小泉氏は興福寺衆徒に属し、嘉吉3年(1443年)に筒井氏と抗争。その後も筒井氏と対立を続け、長禄3年(1459年)および文明7年(1475年)には「小泉館(城郭化推定)」が攻め落とされ破却されました。
天正期、豊臣秀長の家臣・羽田長門が4万石で入封し、外堀や池を整備。慶長6年(1601年)には片桐貞隆が1万5千石で城主となり、関ヶ原後に一時移封された後、元和9年(1623年)再び小泉城に入り小泉陣屋を開設しました。
藩主片桐貞隆ののち、貞昌・貞房ら12代にわたり片桐氏が明治維新まで統治。藩領は最盛で1万4千石を数え、藩主家の墓所は京都大徳寺にあります。廃城は明治初年の廃城令によるとされ、建物は取り壊されましたが、堀跡・土塁・石碑が往時をしのばせます。
内堀に囲まれた主郭は一段高い台地上にあり、藩主居館と家中屋敷が並びました。内堀完成の銀4貫目の記録が『旧記』に残ります。
主郭を取り巻く外堀として築かれた二つの池は、城の防御機能と景観を兼ね備え、小泉城の象徴的遺構です。
大手道は金輪院前の鈎の手道が起点で、三か所の門(北・西北・南)が設けられました。現存の冠木門は南門の表門と伝わり、往時の出入口の一端を伝えます。
城跡は現在公園化されておらず耕地に転用されていますが、土塁跡や堀跡、石碑・門跡をたどることで城郭の外形を実感できます。
城跡に隣接する小泉神社は往時の表門を移築したものとされ、境内には土塁跡や石碑が点在します。
城主片桐且元の像が残る慈光院は徒歩圏内。城主ゆかりの史跡めぐりにおすすめです。
小泉城跡は、興福寺衆徒から豊臣・徳川期の大名支配までを物語る貴重な史跡です。堀跡や池、門跡をたどりながら城郭の構造を想像し、片桐氏ゆかりの地を訪ねることで、戦国・江戸の地方政治と城下町の息吹を感じることができるでしょう。