龍王山城は、奈良県天理市田町周辺に位置していた日本の山城で、かつて大和国を代表する戦略的要地として重要な役割を果たしました。大和平野と大和高原の境界にあたる標高の高い龍王山に築かれ、その雄大な構造と歴史的意義から、現在も多くの歴史ファンや登山者に親しまれています。
龍王山城は、藤井集落からの比高約130メートル、大和平野からの比高は約485メートルとされ、これは大和国の名城・高取城をも凌駕する規模でした。城域も非常に広大であり、北城と南城の2つの主要部分に分かれて構成されています。北城が主城、南城が詰城と考えられており、それぞれ築かれた時期にも差があるとされています。
この地を拠点とした十市氏(とおちし)は、筒井氏、越智氏、古市氏、箸尾氏と並ぶ大和国の五大豪族の一角を担っていました。十市郷と呼ばれる一帯に広がる平野部には、平城の十市城もあり、龍王山城とあわせて二つの城を本拠とした拠点戦略を展開していました。
1997年(平成9年)には天理市教育委員会により、南城の平坦地にて発掘調査が行われ、当時の構造や生活の痕跡が明らかになってきています。
龍王山城が史料に登場するのは、1507年(永正4年)の山城国一揆の際で、「今夜一国一揆ことごと蜂起する。ニ上山、三輪山、釜口ノ山、桃尾かかり火焼く」と『多聞院日記』に記録されています。「釜口ノ山」が龍王山を指すとされ、これが文献上の初見です。
十市氏の党首・十市遠清の時代には既に龍王山に拠点を構えていたと推定され、1483年(文明15年)以前の築城であった可能性も指摘されています。その後、十市氏は筒井氏との同盟を解消し、1520年には孤立状態となりますが、1532年に当主が十市遠忠に変わると、彼は本格的な山城として龍王山城を整備し直しました。
1540年には筒井氏との和睦を果たし、遠忠の勢力は急成長します。木沢長政を討った後は、筒井氏をもしのぐ権力を持つようになり、興福寺から使者が訪れるほどの地位にまで上り詰めました。和歌や書道にも秀でた遠忠は、文化人としても名を馳せました。
1559年(永禄2年)、松永久秀が大和国に入国し、龍王山城を巡る情勢は大きく変わります。十市遠勝は一時松永久秀に降伏し、娘を人質として多聞山城に送りましたが、その後松永と三好三人衆の対立が勃発。1568年、十市遠勝は三好方に寝返り、龍王山城を放棄して十市城へ移転しました。
1575年には松永久秀の甥・松永久通と十市御料が龍王山城で婚礼を挙げます。これは十市氏の残存兵力をまとめ直す意図を持った政略結婚と考えられています。しかし1577年、松永久秀が再度織田信長に謀反を起こし、信貴山城の戦いで自害したのち、翌1578年1月16日、信長の命により龍王山城は破却されました。龍王山城は一度も大規模な戦闘の舞台とはならずに、歴史の幕を閉じました。
現在の龍王山城跡は、空中写真などから当時の姿を偲ぶことができます。南北1.2kmにわたる城域には、曲輪や土塁、堀切などの遺構が確認され、戦国末期の改修痕跡も多く残されています。
龍王山の山頂付近には、龍王社と呼ばれる神社があり、城の守護神として崇敬を集めていたことがうかがえます。また、近辺には溜池なども残され、城下の生活インフラの一端が垣間見えます。
現在、龍王山はハイキングコースとして整備され、山頂からは大和平野を一望できる絶景が広がります。自然と歴史が融合したこの地は、訪れる人々に深い感動を与えてくれる場所となっています。
龍王山城は、戦国時代における大和国の政治・軍事の中心的な城郭の一つでした。十市氏の興亡や松永久秀の戦略的拠点としても重要な役割を果たし、その歴史は戦国の激動を物語っています。現在では、歴史的遺構として保存され、登山や歴史散策の名所として多くの人々に親しまれています。奈良県を訪れた際には、ぜひ一度その地を訪れ、戦国の記憶に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。