西山塚古墳は、奈良県天理市萱生町(かようちょう)に所在する古墳です。形状は前方後円墳であり、大和古墳群のうち、萱生支群に属する古墳の一つとして知られています。現在のところ、国指定史跡などの文化財指定は受けていませんが、その歴史的価値は非常に高く、多くの研究者や歴史愛好家の関心を集めています。
この古墳の築造時期は、古墳時代後期前半、すなわち6世紀前半と推定されています。第26代継体天皇の皇后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の真の陵墓ではないかという説も有力であり、学術的にも注目されています。
2024年には、古墳敷地内にあった古民家を改装した宿泊施設「cofunia」が開業し、観光地としての魅力も高まりつつあります。宿泊を通じて歴史に触れられる新たな試みとして、地域活性化にも貢献しています。
西山塚古墳は、奈良盆地の東縁部に位置する天理市萱生町の集落西端、傾斜地に築かれた大型の前方後円墳です。これまで本格的な発掘調査は行われていませんが、明治20年(1887年)の開墾時に遺物が出土したとの記録が、『山辺郡誌』に残されています。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。外表には葺石(ふきいし)や埴輪(はにわ)が確認されており、古墳周囲には周濠が巡らされていた形跡もあります。周濠は現在、4ヶ所の溜池としてその痕跡をとどめています。外堤の遺構も認められており、往時の大規模な造営がうかがえます。
現在、具体的な埋葬施設の構造は明らかになっていません。しかし、明治時代の開墾の際には、石棺や勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、鈴、土器、人造石といった多様な遺物が出土したと伝えられています。これらの遺物は現存しておらず、現在は所在不明です。
この古墳は、北向きに築かれており、大和古墳群の中では珍しい方角です。北面を持つ古墳は、西山塚古墳と二ノ瀬池古墳のみという例外的な存在です。
西山塚古墳の被葬者は明らかではありませんが、第26代継体天皇の皇后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の真の陵墓とする説があります。手白香皇女の陵墓については、『古事記』や『日本書紀』には記載がありませんが、『延喜式』諸陵寮には「衾田墓(ふすまだのはか)」として記載されています。
明治9年(1876年)、教部省により、天理市中山町の西殿塚古墳が手白香皇女の陵墓と定められ、現在も宮内庁によってそのように治定されています。しかし、西殿塚古墳の築造年代は3世紀後半頃と推定されており、6世紀前半とされる手白香皇女の時代とは一致しないという考古学的な矛盾が存在します。
この矛盾を解消する説として、西山塚古墳を手白香皇女の陵とみなす見解が提唱されています。その主な根拠には、以下の点が挙げられます。
このような点から、西山塚古墳は手白香皇女の陵である可能性が高いとされています。
第26代継体天皇は、第25代武烈天皇の死後、後継者がいなかったため、応神天皇の五世孫である男大迹王(おおどのおおきみ)が越前より召されて即位しました。即位後、大和へ遷都するまでに10年以上を要しており、その背景には旧来の王統勢力との政治的葛藤があったと考えられています。
このような政治情勢の中で、継体天皇が旧王統の血筋を引く手白香皇女を皇后としたことは、正統性の強化を意図した政治的婚姻であったと考えられます。手白香皇女の陵墓が、大和王権の大王墓が集まる地域、すなわち纒向古墳群や柳本古墳群の近くに営まれたことも、その象徴的な意味合いが強いとされます。
西山塚古墳は、6世紀前半に築かれたとされる貴重な前方後円墳であり、被葬者を巡る考古学的・歴史的研究の対象となっています。手白香皇女の陵である可能性を示す多くの要素が見られ、今後の調査や研究の進展によって、その歴史的意義がさらに明らかになることが期待されます。また、古民家を活用した宿泊施設の開業など、地域との結びつきも深まり、観光資源としても注目されています。