額安寺は、奈良県大和郡山市額田部寺町に所在する真言律宗の寺院です。山号は熊凝山(くまごりさん)で、本尊には十一面観音をお祀りしています。名称については「がくあんじ」ではなく、正式には「かくあんじ」と読みます。
当寺は、大和郡山市の南端に位置し、大和川と佐保川の合流地点近くにあります。古くは「額田寺(ぬかだでら)」とも呼ばれ、大和国平群郡額田郷を拠点としていた有力豪族・額田部氏の氏寺でした。
『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(天平19年・747年)によれば、南都七大寺のひとつである大安寺の前身は、推古天皇29年(621年)に聖徳太子が額田部の地に建立した「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」であるとされています。この精舎が移転・改称を重ね、最終的に平城京における大安寺になったと伝えられます。
この熊凝精舎を額安寺(額田寺)とする説もありましたが、現在ではその説は史実とは認められていません。学者の福山敏男氏は、熊凝精舎という存在自体を疑問視しており、大安寺創建を聖徳太子に関連付けるために後世で作られた仮構である可能性が高いと指摘しています。
かつて額安寺に伝わり、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されている「額田寺伽藍並条里図」は、奈良時代の伽藍配置や周辺寺領の様子を詳細に描いた貴重な資料です。この図によって、当時の額田寺には南大門、中門、金堂、三重塔、講堂、僧坊などが建ち並んでいたことが分かります。
同図の人名や記載から、制作年代は天平宝字年間(757年~765年)とされ、額安寺の創建がそれ以前であることを裏付けています。
境内からは単弁六弁蓮華文の軒丸瓦(7世紀第2四半期のもの)などが出土しており、創建当初の姿を示しています。また、西側からは法隆寺創建伽藍出土瓦と同型の忍冬唐草文の軒平瓦も出土していますが、1点のみであるため、両寺の関連性については慎重な見方も存在します。
平安時代には寺勢が衰退しましたが、鎌倉時代後期には西大寺の高僧・叡尊やその弟子忍性によって再興されました。しかし、戦国時代の明応8年(1499年)、細川政元の家臣・赤沢朝経によって焼き討ちに遭い、再び荒廃します。
天正8年(1580年)には織田信長による検地で寺領180石を没収されますが、豊臣秀吉の計らいで寺領一町歩を与えられ、四天王寺へ五重塔を譲ることで再建の道が開かれました。慶長5年(1600年)には秀吉の子・豊臣秀頼によって五重塔が四天王寺に移築されました。
江戸時代には寺領12石が公認され、以降は安定した寺運営が続けられました。
境内及び旧蔵の文化財には以下のようなものがあります。
2019年(令和元年)、奈良大学は額安寺から伝来した木造四天王像2体から、「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文を発見しました。このことから、四天王像が行基ゆかりの喜光寺(旧:菅原寺)から移されたとする伝承が裏付けられることとなりました。
額安寺は、聖徳太子霊跡第22番札所に指定されています。前後の札所は以下の通りです。
額安寺は、長い歴史と豊かな文化遺産を持ち、多くの国宝や重要文化財を有する名刹です。古代から現代に至るまで、多くの人々に支えられ再興を繰り返しながら今日に至るその姿は、日本の仏教史を体現する貴重な存在であると言えるでしょう。