夜都岐神社は、奈良県天理市乙木(おとぎ)に鎮座する神社で、古来よりこの地域に住まう人々から信仰を集めてきました。その名は「夜都伎神社」や「夜都岐神社」とも表記され、「やつき」「やとぎ」といった読み方も伝わっており、地域によって異なる呼称が見られます。
旧社格は「村社」とされ、歴史的にも格式を有する神社として知られています。「大和国山辺郡 夜都伎神社」として『延喜式神名帳』にも名が記されており、いわゆる「式内社」の一つと考えられています。ただし、同様の論社として、天理市竹之内町の「十二神社」および田井庄町の「八剣神社」も挙げられており、学術的な議論も行われています。
夜都岐神社は、乙木集落の北端に位置し、周囲には古墳が点在する歴史的な景観が広がっています。一説には、「夜都岐」という社名は、地名「乙木(おとぎ)」の文字を写し誤ったものであるとも言われており、名称には地元の歴史が色濃く反映されています。
また、全国各地に点在する「八剣神社」との関連性も考察されており、神社の祭神や由緒から、古代の信仰体系における広がりや交流の痕跡が見て取れます。
夜都岐神社の主な祭神は以下の四柱です。
これらの神々は、いずれも古代の日本神話において重要な役割を担っており、夜都岐神社が古代祭祀の流れを受け継いでいることを示しています。
かつて乙木には、夜都伎神社と春日神社という二つの神社が存在していました。しかし、社地の交換が行われ、夜都伎神社の社地は約400メートル東南に位置する竹之内の三間塚池(現在の十二神社の地)と交換されました。この後、乙木には春日神社のみが残り、その社名を「夜都伎神社」に改めたと伝えられています。
乙木村はかつて、興福寺大乗院および春日大社の荘園である「乙木荘」に属していました。そのため、春日大神を当地に勧請し、信仰の中心としていました。このつながりから、夜都岐神社と春日大社の関係は非常に深く、かつては「蓮の御供(はすのごくう)」と呼ばれる神饌を春日大社に献上していた記録があります。
また、社殿や鳥居が老朽化するたびに、春日大社より古い建物を下賜される伝統もありました。たとえば、応永13年(1406年)には、春日大社の第四殿を夜都岐神社へ下賜しています(『春日大社文書』より)。さらには、寛正2年(1461年)4月6日には、興福寺大乗院の尋尊が当社を参詣した記録も残されています(『大乗院寺社雑事記』より)。
現在の本殿は、明治39年(1906年)に春日大社から移築されたものです。このように、夜都岐神社の建築や信仰の形態は、春日信仰の影響を色濃く受け継いでいます。
夜都岐神社の周辺には、古墳時代の遺跡として知られる「東乗鞍古墳」(約200m北)と「西乗鞍古墳」(約300m北西)があり、古代からの祭祀的・政治的中心地であったことがうかがえます。また、神社が鎮座する地も「宮山(たいこ山)」と呼ばれており、古墳を削平して神社が造営されたという説もあります。
神社の西側には、かつて神宮寺として「十来子堂(じゅうらいしどう)」が存在しており、十羅刹女(じゅうらせつにょ)を祀っていました。現在は、乙木集落内の薬師堂に遷され、信仰が続けられています。これは、神仏習合の名残を今に伝える貴重な文化的要素となっています。
夜都岐神社の拝殿は、奈良県内でも珍しい萱葺き屋根を有しており、その素朴ながらも風情ある佇まいは、訪れる人々に深い感動を与えます。伝統的な建築様式を今に伝える貴重な建造物として、地域の文化財的価値も高いものです。
夜都岐神社は、古代の祭祀を今に伝える神社として、また春日信仰の影響を色濃く受け継ぐ存在として、歴史的にも文化的にも極めて貴重な存在です。周辺には古墳や旧跡も多く、神社とともに地域の長い歴史を感じることができる場所です。静かな集落の中にひっそりと佇むその姿は、訪れる人々に心の安らぎと、過去と現在を結ぶ祈りの場としての魅力を提供してくれるでしょう。