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郡山城(大和国)

(こおりやまじょう)

郡山藩の藩庁が置かれていた名城

郡山城は、奈良県大和郡山市に位置し、大和国に築かれた中世から近世にかけて築かれていた歴史ある日本の城です。この城は戦国時代から江戸時代にかけての重要な拠点であり、豊臣政権下においては、豊臣秀吉の異父弟である羽柴秀長の居城として知られています。秀長が治めていた大和・紀伊・和泉の三国100万石の中心であり、その後江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれ、譜代大名の支配を受けながら、明治維新を迎えるまで歴史の舞台となり続けました。

城の概要と立地

郡山城の跡地は、秋篠川と富雄川の間にある西京丘陵の南端に位置し、平山城または平城の形態を持ちます。奈良の地は良質な石材に乏しく、城郭建築に必要な石材を各戸から徴発しました。中には、寺院の墓石や石地蔵、仏塔の部材、さらには平城京の羅城門に由来するとされる礎石なども使用されました。

現在の郡山城跡は、日本さくら名所100選にも選ばれ、春には桜の名所として多くの観光客が訪れます。また、続日本100名城(165番)にも選定されており、2022年11月10日には国の史跡に指定されました。

城の成立と発展

雁陣の城としての始まり

郡山城の始まりは、10世紀末ごろとされます。記録上の初見は『東南院文章』にあり、応保2年(1162年)、「雁陣の城」が築かれたと記載されています。この当時は土塁と柵をめぐらした簡素な環濠集落のようなものでした。

戦国時代の攻防

永正3年(1506年)には、赤沢朝経が大和に侵攻し、郡山城を包囲する戦いが発生しました。郡山衆や宝来衆、西京衆らが立て籠もりましたが、圧倒的な兵力の前に多くが討ち死にし、『多聞院日記』にも「郡山城没落」と記されています。

その後、郡山城の支配は筒井氏や越智氏、松永久秀の勢力などが入り乱れ、複雑な政情の中で幾度も主が入れ替わりました。

筒井順慶による再建と近世城郭化

筒井順慶が郡山城を拠点とし、織田信長の支援を得て大和国守護となると、郡山城は本格的な近世城郭へと改修されます。特に天正9年(1581年)からは、明智光秀が普請目付として携わり、大工衆を動員しての大規模な工事が行われました。

その後、順慶の死去に伴い、養子の筒井定次は伊賀国に転封となり、郡山城は新たな段階へと移行します。

豊臣秀長の時代:100万石の居城

天正13年(1585年)、豊臣秀吉の異父弟である羽柴(豊臣)秀長が郡山城に入城し、和泉・紀伊・大和三国100万石を領する大名として君臨しました。彼は郡山城を大規模に整備・拡張し、城郭の構造はもちろんのこと、城下町の整備にも力を入れました。

城下町の形成と活性化

秀長は奈良の商業活動を郡山城下に集中させ、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町などの14町を整備し、「箱元十三町」と称されました。これらの町名は、現在も大和郡山市内に残っています。

天守と伝承

郡山城には、5層の天守があったという伝承もありますが、実際の規模については建築学的な見地から疑問視されており、より小規模だった可能性が高いと考えられています。

江戸時代から明治維新へ

17世紀初頭、城主だった増田長盛が改易された後、一時は廃城状態になりますが、水野勝成の入封とともに徳川幕府の命により再び改修されました。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封以降は柳沢家が明治維新まで支配しました。

現在の郡山城跡と観光

桜と歴史の名所

郡山城跡は、春になると城郭内外に咲き誇る桜が美しく、地元の人々はもちろん、多くの観光客でにぎわいます。城跡は整備され、石垣や堀、櫓跡などが保存されており、歴史的価値を今に伝えています。

2022年11月10日には国の史跡に指定され、今後の保存・活用にますます注目が集まっています。

まとめ

郡山城は、戦国の争乱をくぐり抜け、豊臣政権下で大和三国を統治した重要な拠点として栄えました。その後も江戸時代を通じて政治・文化の中心としての役割を担い続け、現在では桜と石垣の美しい名所として多くの人々に親しまれています。歴史を学び、風情ある景観を楽しむことができる郡山城跡は、奈良県を訪れる際にはぜひ足を運んでいただきたい観光スポットです。

Information

名称
郡山城(大和国)
(こおりやまじょう)
リンク
公式サイト
住所
奈良県大和郡山市城内町
電話番号
0743-52-2010
定休日

無休

料金

無料

駐車場
近隣に有料駐車場有り
アクセス

近鉄郡山駅から徒歩で10分

JR郡山駅から徒歩で15分

天理・法隆寺

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