飛鳥京跡は、奈良県高市郡明日香村に広がる、飛鳥時代の都市遺構の総称です。かつて「飛鳥古京跡(あすかこきょうあと)」とも呼ばれていたこの遺跡群は、日本における古代都市の原型とも言える貴重な文化遺産です。飛鳥京とは、6世紀末から7世紀後半にかけて政治の中心地として機能した都市であり、その名残を伝える数多くの遺構が、この明日香村の地に残されています。
この遺跡群には、歴代の大王(天皇)の宮殿跡や、官衙(役所)、豪族の邸宅跡、寺院跡といった建築物の跡が含まれます。さらに、広場、道路、苑池、井戸など、都市としての機能を支えた施設の存在も確認されています。
飛鳥京跡の中心を成すのが飛鳥宮跡です。ここには6世紀末から7世紀後半にかけて、複数の天皇が宮を築いたことが『日本書紀』にも記されています。飛鳥京は、一代限りの仮宮から、複数の代にわたって継続利用される恒久的な宮都への過渡期にあたる都市であり、この地で日本の宮都制度が大きく発展していったことがうかがえます。
発掘調査により、飛鳥宮は大きく3期に分類され、それぞれ以下のように推定されています。
飛鳥宮跡の最上層には、内郭と外郭から成る後期岡本宮の構造が確認されています。内郭は東西152〜158メートル、南北197メートルにおよぶ大規模な構造で、北区画には井戸や高床建物、廊状建物などがあり、南区画には中心線が一致する大型建物跡も見つかっています。
外郭にも掘立柱建物や石組溝などが検出されており、これらの施設群全体が後期岡本宮であると考えられています。さらに南東部には「エビノコ郭」と呼ばれる区画があり、これは飛鳥浄御原宮に付属する施設と推定されています。
「エビノコ郭」には、29.2×15.3メートルの四面庇付き掘立柱建物が存在し、「エビノコ大殿」とも称されています。この建物は後世の大極殿の原型とされる一方で、飛鳥浄御原宮には大極殿での国家儀式が記録されていないため、藤原京以降に正式に成立したとする説もあります。
周辺からは「辛巳年(681年)」や「大来(伯)皇女」と記された墨書木簡が出土しており、これらの考古資料により、飛鳥浄御原宮の時代であることが裏付けられています。
飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に位置する庭園遺構で、1999年に確認されました。この苑池は、外国使節を歓迎するための饗宴空間として使用されたと考えられています。2003年には国の史跡・名勝に指定され、2015年には苑池への門跡も発見されました。
この苑池は、南池と北池、それをつなぐ渡り堤や水路、人工島などから構成されています。斉明天皇の時代に造営され、天武天皇期に整備され、10世紀ごろまで使用されていたと推定されています。やがて鎌倉時代までには完全に埋没したとされています。
飛鳥宮跡の発掘調査は1959年(昭和34年)に開始され、現在まで断続的に行われています。調査によって、時期の異なる遺構が同一地点に重なって存在することが明らかとなり、それぞれの構造や規模、使用目的なども次第に明らかになってきました。
当地はもともと皇極天皇の飛鳥板蓋宮跡と伝承され、「伝飛鳥板蓋宮跡」として国の史跡に指定されていました。しかし、その後の調査により複数の宮殿跡が重層していることが分かり、2016年10月3日には指定名称が「飛鳥宮跡」へと変更され、指定範囲も拡張されました。
飛鳥京跡は、単なる遺跡群ではなく、日本の都市形成の原点とも言える重要な文化資産です。ここには、政治、祭祀、外交、文化、技術など、あらゆる側面で古代国家がどのように形成され、発展していったかを知るための貴重な情報が詰まっています。今後のさらなる発掘と研究により、飛鳥の姿がより鮮明に浮かび上がることが期待されています。