平等寺は、奈良県桜井市三輪にある曹洞宗の寺院で、その山号は三輪山です。本尊には十一面観音が祀られており、かつては大御輪寺や浄願寺とともに三輪明神(現・大神神社)の神宮寺としての役割を果たしていました。そのため、「三輪別所」とも呼ばれることがあり、古くから信仰の厚い場所です。
伝承によれば、平等寺は聖徳太子が開基し、後に慶円によって中興されたとされています。さらに、『大三輪町史』には平等寺以前に存在した大三輪寺遍照院が空海により開かれた可能性が示されており、その歴史は非常に古いものです。現存する最古の史料としては、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に書かれた『弥勒如来感応抄草』があり、ここに三輪別所として記されています。
鎌倉時代には、平等寺は「三輪別所」として確固たる地位を築き、三輪明神の別当寺としての役割も果たしていました。『大乗院寺社雑事記』には、平等寺が興福寺の末寺であったことが記録されており、同時に修験道の道場としても機能していたことがわかります。そのため、興福寺の影響を受けつつも、醍醐寺との関係も深く、内部には興福寺の学衆と醍醐寺の禅衆が共存する独特な組織構造が存在していました。
江戸時代に入ると、平等寺は興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院としての性格を強める一方で修験道の影響も引き続き受けていました。この時期、平等寺は内供(皇室の祈願を行う寺)としても機能し、80石の朱印地を有する重要な寺院でした。さらに、伽藍配置も室町時代の絵図により確認されており、三輪明神の南方に広がる広大な境内には、本堂をはじめ、慶円上人開山堂や行者堂、御影堂、一切経堂などが並んでいました。
特に有名なエピソードとしては、関ヶ原の戦い(1600年)で敗北した島津義弘が、少数の家臣と共にこの平等寺に逃れ、70日間にわたり滞在したことが挙げられます。義弘は住職から帰国のための資金として銀一貫目(約4キロ)を借り受け、無事に薩摩へ帰還しました。その後、島津家は平等寺を深く敬い、江戸時代を通じて護摩堂の建立や米の奉納などを行い、長きにわたって支援を続けました。
1868年(明治元年)の神仏分離令により、平等寺は他の神宮寺と同様に大きな転機を迎えました。1870年(明治3年)には堂舎が破壊され、一度は廃絶の危機に瀕しましたが、地元有志と旧住職の努力により復興が進められ、最終的には曹洞宗の寺院として再興されました。
1977年(昭和52年)、現在の三輪山平等寺として再興され、その後も復興が続いています。境内には本堂や不動堂、二重塔などが再建されており、伝統の息づく厳かな雰囲気が漂っています。
現在の平等寺の境内には以下のような建物が立ち並んでいます。
平等寺は桜井市三輪に位置し、大神神社や三輪山への参拝と合わせて訪れることができます。歴史と信仰の深さを感じることのできる静かな寺院として、多くの参拝者に親しまれています。