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子嶋寺

(こじまでら)

高野山真言宗に属する歴史ある古刹

子嶋寺は、奈良県高市郡高取町観覚寺に位置する高野山真言宗の寺院です。山号は子嶋山(または報恩山とも伝えられています)。本尊は大日如来であり、その開山は寺伝によれば僧・報恩であるとされています。寺院は、深い歴史を有しながらも、現在も地元の信仰を集める静謐な霊場として知られています。

寺院の概要と文化的価値

子嶋寺が伝える曼荼羅の国宝

子嶋寺は、平安時代中期に制作された国宝「両界曼荼羅図(子島曼荼羅)」を伝えることで広く知られています。この曼荼羅図は、金剛界曼荼羅胎蔵曼荼羅の2つの形式を持ち、京都・神護寺の高雄曼荼羅と並ぶ傑作とされています。現在は奈良国立博物館に寄託されています。

清水寺との歴史的つながり

また、京都・清水寺は、子嶋寺の僧・延鎮によって開かれたと伝えられており、子嶋寺は真言宗子嶋流の道場として平安時代中期以降に大いに栄えました。『今昔物語』などにもこの伝承が語られており、その影響の広がりがうかがえます。

子嶋寺の歴史

創建の起源と伝承

子嶋寺の創建は奈良時代以前にさかのぼると伝えられています。『元亨釈書』や『本朝高僧伝』には、天平宝字4年(760年)に僧・報恩が孝謙天皇の勅願を受けて「子嶋神祠のほとり」に寺院を建立したとされています。現在、高取町下子島にある小島神社がその神祠にあたると見られます。

さらに古い創建説

一方で『日本書紀』には、皇極天皇3年(644年)に蘇我蝦夷が大丹穂山に「桙削寺(ほこのきでら)」を建てたと記録されており、この寺が子嶋寺の前身であるとする説も存在します。この説をとれば、子嶋寺の創建はさらに100年以上さかのぼることになります。

平安時代以降の隆盛と衰退

平安時代初期には、長谷寺や壺阪寺と並ぶ大和国の観音霊場として栄えました。延鎮が開いた清水寺も子嶋寺の支坊として発展し、その影響力の大きさがうかがえます。

中興と発展

平安中期には一時的に衰退し、永観元年(983年)、興福寺の僧・真興によって中興されました。このとき、山下に「観覚寺」を建立し、真言宗子嶋流を開いたと伝えられています。

最盛期

最盛期には21の子院が立ち並び、現在の高取町から明日香村に至る広大な境内を誇っていました。また、『御堂関白記』には、寛弘4年(1007年)に藤原道長が子嶋寺を参詣した記録も見られます。

「子嶋寺」はその後、「観覚寺」や「千寿院」と称され、近代に再び「子嶋寺」と名を改めています。

中世から近世への変遷

室町時代には戦乱に巻き込まれて再び衰退しますが、江戸時代に入り高取藩主・本多氏や植村氏の庇護を受けて再興されました。この時期、寺号は「子嶋山千寿院」と改められました。

現存する本堂は、嘉永元年(1848年)、壺阪寺の僧・賢応によって再建されたものです。また、山門は高取城の二の門を移築したもので、城郭建築の名残を今に伝えています。

近代以降の復興

明治時代に入ると、廃仏毀釈の影響を受けて無住となり、一時衰退しましたが、地元の信仰を受けて再興され、明治36年(1903年)には寺号を「子嶋寺」と正式に復称しました。

子嶋寺の建造物と文化財

本堂と山門

本堂は嘉永元年(1848年)に再建されたもので、現在もその姿をとどめています。また、山門は高取城の二の門を移築したもので、現存する数少ない高取城の建築物として貴重な文化遺産です。

国宝と重要文化財

国宝

紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図は、一条天皇の病気平癒祈願の功により、子嶋寺中興の祖・真興が賜ったと伝わります。奈良国立博物館に寄託されています。

重要文化財

木造十一面観音立像は東京国立博物館に寄託されており、その繊細な造形は平安時代の仏像彫刻の高い技術を示しています。

アクセス情報

最寄り駅と交通手段

子嶋寺へは、近鉄吉野線壺阪山駅で下車し、徒歩でのアクセスが可能です。奈良観光の際には、静かな歴史の趣を感じるこの寺を訪れることで、古都の精神文化をより深く体感できるでしょう。

おわりに

子嶋寺は、千年以上の歴史を持ち、多くの文化財と伝承を今に伝える貴重な寺院です。平安期の宗教文化、清水寺との縁、曼荼羅図の美術的価値など、観光客のみならず歴史愛好家にとっても訪れる価値の高い場所といえるでしょう。

Information

名称
子嶋寺
(こじまでら)

明日香・橿原

奈良県