奈良県宇陀市大宇陀上新に位置する森野旧薬園は、享保年間(1716年~1736年)に開かれた歴史ある薬草園であり、国指定史跡にも指定されている貴重な文化財です。江戸の小石川御薬園(現・小石川植物園)と並ぶほど古く、現存する日本最古の私設植物園といわれています。約250種類を超える薬草木が四季折々に育まれ、訪れる人々に学びと癒やしの時間を提供しています。
森野家は、古くから大和国宇陀郡松山(現在の宇陀市大宇陀)で吉野葛(よしのくず)の製造を生業としてきた名家です。享保14年(1729年)、森野家11代目の森野通貞(初代・藤助)は、本草学者であり幕府の採薬使であった植村政勝に随行し、近畿地方や美濃、北陸の山野で薬草採取に携わりました。
その功績により、幕府から貴重な薬草6種を拝領し、自宅裏山に植えたことが森野薬園の始まりです。以後、森野家は代々にわたり薬草の研究と栽培に尽力し、江戸時代の姿を今に伝える貴重な薬草園として守り続けてきました。
森野旧薬園は、1926年(大正15年)2月24日に国指定史跡となり、1931年(昭和6年)には追加指定が行われました。明治以降、西洋医学の普及により多くの薬園が廃園となるなか、当園は江戸時代の景観と機能を維持し続けている点で、極めて希少な存在です。
文化庁も「江戸時代の薬園として旧態をよく保つもの」と高く評価しており、園内には森野通貞夫妻を祀る桃岳庵(とうがくあん)や碑石も現存しています。
約600㎡の山肌に広がる園内には、薬効を持つ多様な植物が丁寧に栽培されています。各植物には名札が付けられ、名称や効能が記されているため、散策しながら自然と薬草の知識を深めることができます。
春にはカタクリやアミガサユリ、イカリソウなどが咲き誇ります。特に4月上旬に咲く紫色のカタクリは可憐で、森野家がかつて片栗粉の製造を手掛けていた歴史とも深く結びついています。
夏にはオニユリやトウキ、ベニバナなどが園を華やかに彩ります。芳香や鎮咳作用を持つ植物も多く、見た目の美しさと薬効の両面を学ぶことができます。
秋にはサフランやリンドウ、トリカブトなどが見頃を迎え、冬にはフクジュソウやセリバオウレンが可憐な花を咲かせます。寒さの中で力強く芽吹く姿は、生命の尊さを感じさせてくれます。
江戸時代末期、宇陀松山には約1000軒の家があり、その多くが薬に関わる商いを営んでいました。和薬店や薬酒店、合薬店が軒を連ね、地域は「薬のまち」として栄えていました。森野旧薬園の存在は、その歴史を今に伝える象徴的な存在といえるでしょう。
森野家は現在も森野吉野葛本舗として吉野本葛の製造販売を続けています。店舗脇の葛の晒し場を通り石段を上ると薬園が広がり、歴史と自然が一体となった景観を楽しめます。
吉野本葛は、冬の厳寒期に地下水のみで何度も精製・乾燥させる「吉野晒し」と呼ばれる伝統製法によって作られます。添加物を一切含まない自然食品で、粒子が非常に細かく、なめらかな口当たりと透明感が特長です。
体内に吸収されやすく、身体を温める効果があるとされ、古くから滋養食品として親しまれてきました。大宇陀の厳しい寒さと清らかな地下水は、高品質な葛粉作りに最適な環境を提供しています。
西山工場「葛の館」には、販売店舗とともに茶房「葛味庵」が併設されています。作りたての葛切りや葛もち、本蕨もち、葛湯など、本葛ならではの風味と弾力を堪能できます。
特製黒蜜を添えた葛切りは透明感が美しく、深煎りきな粉をまぶした葛もちは弾力ある食感が魅力です。薬草園散策の後に味わう一服は、格別のひとときとなるでしょう。
森野旧薬園へは、近鉄大阪線榛原駅より「大宇陀」行きバスに乗車し、終点「大宇陀」下車後、徒歩約5分で到着します。旧街道沿いに位置し、歴史ある町並み散策とあわせて訪れるのもおすすめです。
森野旧薬園は、単なる観光地ではなく、日本の本草学や薬文化、そして地域の歴史を今に伝える生きた文化遺産です。江戸時代から続く薬草研究の精神と、吉野葛づくりの伝統が息づくこの地で、自然と人との深いつながりを感じてみてはいかがでしょうか。
四季の移ろいとともに表情を変える薬草園は、訪れるたびに新たな発見をもたらしてくれます。宇陀松山の風情ある町並みとともに、ぜひゆっくりと散策をお楽しみください。